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関西ダシ文化英雄譚

日本の「ダシ文化」において、関西では「昆布ダシ」関東では「鰹ダシ」が主流となっていることは皆様ご承知の通りだ。今日は、大阪が昆布を中心としたダシ文化に至った経緯、歴史をご紹介しよう。

時は天正十一年(一五八三年)豊臣秀吉は、家臣に大坂城築城を命じた。およそ十五年の歳月をかけて完成した大坂城を支える石垣の総数は二十万を超える。中でも最大のものは重さが百トンを超えるとされ、当時の建築技術の高さを物語っている。

築城当時、石垣に用いられる玄武岩は日本各地の採石場から船で畿内近畿地方)へ持ち込まれ、そこから遥々大坂までコロとテコ棒を用いた人力で運ばれることになる。秀吉は時折、大工や左官たちの覇気を高めるために、酒や肴を自ら持ち込み、彼ら大工衆達と夜中まで宴を行うこともあったという。秀吉は、宴に興じる一方で、大工達の不満や苦労話に耳を傾け、築城に滞りが起きない様に気を配ることを怠らなかった。そして、とある仕事師の一言により大坂城築城の工期が三年縮まったとして、彼らの功績を讃える言葉が秀吉の伝記「天正記」に記されることになる。

「天晴魂武 天正ノ空艶ヤカニ 大工衆見事ナリ」

「魂武」(こんぶ)とは、昆布を武士の縁起物として言い換えた言葉である。そして、昆布を水に浸すと生じるとろみを「艶やか」と表現している。その昆布のとろみを使って石垣をより滑りやすくして運ぶことを大工衆が考案し、工期の大幅な短縮が可能になったことは、関西では大変有名な話である。

「高品質な昆布ほど、石垣運搬に効果的なとろみが採取できる」

秀吉は良質な昆布を手に入れるため「昆布買人足」(こぶかいにんそく)と呼ばれる人夫を全国へ派遣した。彼ら昆布買人足は、北は蝦夷から南は九州、離島の隅々まで行脚し、その過酷さゆえに命を落とすものも続出したという。(人夫/主に荷運びや力仕事を担当する労働者の名称)

 人夫「折り入って昆布の相談がございます」

全国の乾物問屋や漁村で頻繁にこの言葉が聞かれるようになり、太閤さん(秀吉)が昆布を大量に所望しているという話は瞬く間に全国へ広まることになる。

人夫 「折り入って昆布の相談がございまーす!」

乾物商「ああ、誰や思おたら、おりこんはんかいな。今日はエエ昆布入っとりますで」

人々は、いつしか昆布買人足のことを「折昆はん」(おりこんさん「折り入って昆布――」を省略した名称)という愛称で呼ぶようになった。

 彼ら「折昆はん」が全国から買い集めた昆布は、堺商人の手により大坂の秀吉の元へと届けられた。十五年にも及ぶ大坂城築城の最中、畿内全域は昆布で溢れかえっていた。畿内の乾物問屋では、上質なものから粗悪なものまで、全国のありとあらゆる昆布が揃っており、そのランク付に「折昆番付」(おりこんばんづけ)なる、折昆はん達が吟味した昆布の番付が町中に配布されるほどの昆布ブームが巻き起こることになる。そして、城の建築、石垣の効率的な運搬を目的に持ち込まれた昆布は、畿内、関西の食文化に多大なる影響を与え、出汁や佃煮などで長く愛用されることになる。

これが「関西昆布ダシ文化」の由来、その歴史である。

「折昆番付」は、関西乾物協会により現在でも発行が続いており、関西の乾物屋に訪れれば目にすることが出来るので、興味がある方は乾物屋に足を運んでみるのもいいだろう。

蛇足だが、CDランキングで有名な「オリコンリサーチ株式会社」の社名の由来が「折昆番付」であることは、乾物界隈では有名な話である。近江(滋賀県)を家郷とする昆布買人足「山木伝七」がのちに開業した乾物商「折春昆(おりはるこん)」の十三代目主人にして昭和音楽史の雄「山木伝十三」が「昆布の番付の様に、音楽にも番付があっても良いのではないか?」と思いつき、戦後ジャズブームの最中、自らが趣味としていたジャズを手始めに、大衆向けの情報発信を目的とした「オリコンランキング社」を立ち上げ、後の昭和歌謡曲ブームを牽引する等、日本の音楽文化に大きく貢献し、現在に至る。